私は偽名で出ています

やまわきうみの日常。文句言いがちの30代。

それが一番大事という話。

墨田区のワクチンの件、かなり動きが早いと知って色々読んでたらこんな時間になっていた。

恥ずかしながらコロナ臨戦体制になってからの墨田区の対策や取り組みを今更ながら知り、そして知るほどに安心した。わたし、コロナに罹ってもきっと大丈夫。


墨田区保健所長の西塚至さんのインタビューを読んで、この時期にこの方が区の保健所長で、墨田区は本当にラッキーだと思ったのだけれど、それに伴走する区の姿勢や動きも素晴らしいと感じた。対策として考えられ得る限りの想定を洗い出し、効果を予測し選別、実行へ落とす。対応としては出来うる限りのことをまとめ、不安を煽らずに周知していく。さまざまな部門が連携し、時にはセクションを跨ぎながら実務を行なっている。基本的なことなのに実は民間企業でもなかなか出来ない連携がきちんとできている。

別の感染症がまたいつ流行するか分からない。でも今回これだけのことができている街なので、その時にこの西塚さんが居なくても今回の経験をベースに対応できるだろうし、災害などの別の非常事態においても、対処できるベストな体制を整えることができるのではないかと思った。

 

わたしは学生時代に政策科学科に在籍し、都市政策を学んでいたが、その時に考えていた「魅力的なまちづくりに必要なものは何か」。利便性や住みやすさに繋がる街の綺麗さ、行政サービスなどさまざまなアプローチがあったが、今回のことでなにより住んでいて安心安全なのが一番なのではないかという答えを得たと思っている。そしてこの街はそれを実現する力がある。

 

職員の皆さん、ありがとうございます。墨田区を選んでよかった。

今年も住民税納めます。

 

https://diamond.jp/articles/-/263248

Mr.ビーンと結婚できない男が似てるという説はどこからきたのという話。

くりぃむナンチャラという番組でMr.ビーン選手権というのをやっていた。この番組自体は深夜のテンションもあって最高に笑ったのだが、Mr.ビーンと聞いて、思い出したことがある。

結婚できない男、である。

数年ほど前、わたしは日本のテレビドラマを海外に売るという仕事の末端に居た。その時の上司が「『結婚できない男』はMr.ビーンみたいだから欧米で売れる!」とやたら推してきたので、宣伝用ポスターを作ってみたり、ローカライズしてみたりと手間暇かけて色々していたのだが、結局わたしがいる間にそれらの労力が実を結ぶことはなかった。

そして一つの疑問が浮かぶ。

そもそも、Mr.ビーン結婚できない男の一体何がどう同じなのだろう?と。

ということで、ありあまる時間でMr.ビーンと結婚出来ない男を視聴した。ビーン氏は超自由だった。wikiによれば、主演のローワンアトキンソン曰く、ビーン氏は9歳の子供に近いという設定だそうなので、ある程度自我があり、ある程度善悪の判断がつく子供が、ある程度の悪意や皮肉も織り込んで自由に振る舞っている、というキャラクターなのだろう。いい大人の子供じみた振る舞いに対して、周囲が呆れ、困惑するという実にイギリスっぽいシニカルな笑いで“常識的な大人たち”に風刺を効かせ、社会をナナメに斬る。ビーン氏は見た目は大人、中身は子供の逆コナンだ。

対して、阿部寛演じる「結婚できない男」の桑野信介はこだわりの中に生きる男であった。こだわりが強すぎるが故に、時に側からみれば理解しがたい行動をとったりもするので、その挙動のみに関しては何となくビーン氏に通ずるものもあるが、桑野は決して子供ではなく、様々な経験を経て、自身の信念を突き詰めた結果、いろんな事に不器用になってしまった男である。そしてその不器用さゆえに、簡単には素直になれず、自分の世界を侵される事を嫌がったり、他者に対する感情表現が苦手だったりする。だから、他人との一番密な関係であるところの「結婚」ができない。そう、桑野は大人なのだ。

ということで、少し深掘りすると、「Mr.ビーン」と「結婚できない男」は一瞬似てるかもと思うが、本質的な部分では全くもって似てないじゃん、という結論に至った。イギリスと日本という文化や国民性の違いを差っ引いても、全然違う別物だと思うので、結婚出来ない男を日本版Mr.ビーンだと売り込もうなど無理な話なのである。

ちなみに、「まだ結婚できない男」は観ていない。もしかしたら拗らせまくった結果、斜め上へ行った桑野がMr.ビーン化してるかもしれない可能性は捨てきれないので、そちらについては保留にしておく。

13日の金曜日で仏滅でしたよねという話。

先日、ひさびさに外食をした。仕事をしていた時は毎日外食をしていたのだが、久しぶりということでテンションもブチ上げ状態。味の濃ゆい、ソースっ気たものが食べたいということで、友人とお好み焼き屋へ。

金曜の夜で飛び込みということもあり、案内された席は4人席を2×2に仕切った半相席みたいな席。ご相席の相手は、高齢に差し掛かる手前位の男女で、男性は仕事終わりの勤め人風でテンションが明らかにおかしい。女性は上品な出立ちなのだがずっと俯いており、目の焦点が合っておらず、ただ者じゃないというか只事ではない。男性が女性に話しかけているのだが、反応は一切無視で一方的に喋っている。距離感が狂っている。

他に席が空いていなかったので、居心地の悪さは感じつつも、友人と他愛もない話をしていたのだが、「僕はかに座なんだけど、あなたは?」「今日はあなたに会えてよかったと思っている。」という男性の大声が気になって仕方がない。女性は微動だにしない。そんな彼女に業を煮やしたのか、彼は言った。「まぁ、今日は13日の金曜日で仏滅だから仕方がないか!」

女性は全く反応することなく、鉄板の上でカピカピになった焼きそばを見つめ続けていた。わたしたちはこの2人の空気に完全に飲まれてしまい、もう野球の話も相撲の話もしなくなった。相席4人席に漂うモヤモヤした空気。わたしは間が持たずハイボールをお代わりし、友人は無言でサラダを食べ続けている。

悶々としていた矢先、突然男性が「お会計をしようか。」と言い、この時始めて女性が顔を上げた。が、「ここは僕が払うから、次はよろしくねー、って次は無いかー!」という男性の謎のノリツッコミで再度妙な空気が流れる結果になってしまった。そして、なぜか突然プリザーブドフラワーの話を始めた男性は、以前女性部下の誕生日にプリザーブドフラワーをプレゼントしたら、「周りから変な目で見られ、相当迷惑をしている。次やったらセクハラで訴える。」と言われたという哀しいエピソードを披露。こっちもなんともやるせない気持ちに。そしてふと横に目をやると、女性の荷物に明らかに贈り物であろう花屋の紙袋ひとつ。

ようやく運ばれてきたお好み焼きをわたしたちは無言で食べ続けた。お互いに早くここを離れたいという気持ちがそうさせていた。その間も男性は何か一方的に話し続け、女性は無言。わたしたちはフードファイターの如く食べ続けることのみに集中した。食べ終わる直前くらいにはじめて「ごちそうさまでした。」と蚊の鳴くような女性の声を聞き、ハッとなった。周りの騒がしさに今日が金曜の夜だった事を思い出す。

友人が帰り際、「なんか得体の知れないざわつきを感じた時間だった。ほかにも色々話したい事あったのにね…。13日の金曜で仏滅だったからかな。」と言って、地下鉄の駅へ消えていった。

わたしは去り際に、女性のバッグにちらと覗いたヘルプマークが気になって離れなかった。女性の体調、すごい悪かったんじゃなかろうか。もしそうならば気づかない男性は全てひっくるめてなんともなアレだ。

しかし、この日が13日の金曜日で仏滅なら、明日以降はきっと大丈夫。

彼女の今後に幸多からんことを。

毎年8月になると思う話。

森山直太朗の夏の終わりを聴き、直太朗日めくりも明日から9月。

今年の8月は猛暑と長い休み期間ということもあり、昼夜逆転生活がいよいよ本格化。でも8月6日だけは朝起きて、8時15分に西に向かって黙祷をした。広島で生まれ育った人間だと少なからず特別な感情を抱く日である。

わたしの母方の祖父は親戚を探すため、投下の翌日に市内に入った入市被爆者なのだが、86歳で亡くなるまで特段大きな病気もなく、天寿を全うした。直接の体験者ではないにせよ、あの時のヒロシマを目の当たりにした人間としては幸福な人生を送ったのであろうと思いたい。

祖父は人好きのする人で、かつ話好きでもあったので、戦時中や原爆のことを孫のわたしのみならず、沢山の人に話す人だった。新聞社から取材の依頼があれば当時の状況などを話し、学校で語り部などの依頼があれば勇んで出かけていった。その姿が、時に“どこか誇らしげ”に映ることもあり、そんな祖父に対し、なんとなく訝しい視線を向けてしまうこともあった。そしていつだったか、祖父の話を「もういいよ」と遮ってしまい、その時から8月の祖父の話は遠い記憶のものとなった。

さて。そんな祖父が7年前に亡くなった。葬儀の際、ひとりの高齢女性が棺に縋り憚らず大号泣をしており、そのあまりの悲しみっぷりにこれはどうしたら良いものかと考えていたところ、「うみちゃん、大きくなってからに。おにいさんもほんま安心じゃろうねぇ。ほんまによかったねぇ…。」と不意打ちをくらった。たしか祖父は10人兄弟で、うち5名が戦争が原因で亡くなっている(兄が徴用され南方で戦死、妹4人は栄養失調等の病気で夭折)と聞いている。少なくとも私が知る限り、この方は兄妹では無いはず。というか知らない人だ。慌ただしく動き回る母に尋ねたところ、“松下のおばさん”という情報のみが返ってきただけで、葬儀は“松下のおばさん”の事を考えている間につつがなく終わっていた。

後日、改めて母に尋ねたところ、松下のおばさんは原爆孤児で、祖父と曽祖父(祖父の父)が、数度の親戚捜索の際に広島市内で引き取り、祖父の家で兄妹同然に育った方なのだという。聞けば、祖父の弟の奥さんもそうだというし、他にも何人かを引き取り面倒をみていたそうだ。なんだよ。『この世界の片隅に』かよ。母方の実家はまったく以って裕福な家庭ではないのだが、曽祖父母はどのような気持ちで“松下のおばさん”を迎えたのだろう。そして祖父はどのような気持ちで接していたのだろう…。

 

結局、わたしは一番大切な話を聞かないままに祖父と別れる事になってしまった。この先、実際に伝えることがより難しくなる時代に一体何ができるのだろうか。

子ども、残り20日ですという話。

2019年。

テレビで仕事初めのニュースを観ながら、わたしは今月もまだ休みゆえに、実家でだらだらと時間とヒマを持て余している。寒い。

地元は、広島市の中心から車で約1時間弱の郊外で、田んぼだった土地にはファミリー向けの戸建が続々と建ち、最寄りのコンビニまで徒歩15分、最寄りの駅まで徒歩25分、最寄りのバス停まで徒歩15分だけれど、バスのダイヤが朝朝昼の日に3本。タクシーに乗ったら、免許を返納した自分の祖父よりも年上であろうおじいちゃんがドライバー稼業を営んでおり、カープの〇〇選手の実家はそこを曲がって2軒目だとか、個人情報保護の時代にプライバシーの欠片も無いような話を繰り広げはじめるという、日本の地方都市と、その郊外が抱える問題を全て凝縮したような田舎である。

新たな仕事は2月からということで、早めに東京に戻って準備やらせねばと思う一方、年々老いてゆく母に年甲斐もなく娘として甘えながら過ごせる時間は今だけかも‥と思うと、東京へ戻る腰がなかなかに重くなり、どうにも上がらない。

親元を離れた後、親と一緒に過ごせる時間を試算すると、盆正月の年間6日×平均4時間×余命年数だとNHKだかでやっているのを見て、漠然と「あー、そんなもんかー」と思っていたが、一度大病を患った母に当てはめたら、もしかして1ヶ月も無いのではなかろうか?

先月末から今日で2週間強の滞在になるが、その間にも母には仕事があり、私も出掛けたりしているので、同じ屋根の下にいても一緒に過ごす時間は本当に短い。改めて意識すると、実時間はこれだけなのかと中々ショックではあるけれど、ネットで見たどこかのお寺の掲示板の『お前も死ぬぞ』の言葉を胸に、残り5日の滞在時間を大切にしようと思ったのだった。

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今年は吉。良い方向に向かうように努めよう。